「応神天皇」2006.11.14





「第十五代天皇。
仲哀天皇と神功皇后の子。
母・神功皇后や第十六代天皇・仁徳天皇と混合視されるなどと。
功が希少な天皇。


崩御後、欽明天皇の御代に
八幡神として顕現ス。」



-[応神天皇 (オウジンテンノウ)]---------------------------------------=
封神演義の名君・紂(ちゅう)王です。ウソです。
昏君(フンチュン【バカ皇帝】)大好きですよ。封神演義は良く知らんけど、彼だけ好きですよ(何。

対戦カードゲームでは遠距離属性ということですが、
今回はその事は気にせずに描きました。
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■功のない天皇『応神天皇』
 その名の由来は「王神=応神」と王の意を冠する。
"功のない"と描いたが、その名に見合い「応神天皇」と云う名が築いた功は多い。
・【玉座し打立てた三韓征服を目論む、覇道の政策】
・【三韓遠征後により疲労困憊した国土を栄えさせる政策方針】
これらの行事は「応神天皇」の名前で言い伝えられている。

…しかし実際に玉座した当時の彼は年端もいかぬ幼少であったのである。

■母・神功皇后との混合視
【玉座し打立てた三韓征服を目論む、覇道の政策】
まずは『三韓遠征』を説明する。
 三韓征服の政治方針を推し進める夫・仲哀天皇は、進軍途中の船上で病で崩御
替りに、女の身で在りながら全倭軍の統率をとり三韓征服を進行したのが妻・神功皇后である。
しかも胎児を身籠ったまま戦い抜き、その戦場のなかで産まれたのが、『応神天皇』だ。

 凱旋後、応神天皇は幼子にて玉座する。
しかし海の向こうの三韓の動向を見極めるには母・神功皇后の陰の政策が必要であった。

−これにより、名は「応神天皇」の名目で。実は「母・神功皇后」の政策という、
「応神天皇」とは名だけの政策期となるのである。

■次期・仁徳天皇との混合視。
【三韓遠征後により疲労困憊した国土を栄えさせる政策方針】
 名だけの天皇となった「応神天皇」。そこから宮中に引き蘢りになったと推察される。

 疲労困憊した国土を癒そうとする"国民の事を思い遣った"政策方針は、
前政策との方針の違いから仁徳天皇が行ったという説が有力であろう。
事実、「民の為」の政策は国民に歓迎され、仁徳天皇に対する感謝の讃えははっきりと残りやすい。

幼少の頃から、毋の陰に隠れていた「応神天皇」には、とても思い付かない政策であっただろう。

■では何故、混同視されたのか。
 一言で云えば、目立たなかったのである。
幼少期は応神天皇とは名ばかりの、聖母・武神の神功皇后の政策。
次期天皇の疲労した民への「民の為」の仁徳天皇の政策。

 云うならば、強力なキャラクターを持った二人に挟まれた、
特に何もしていない「応神天皇」はキャラ負けし、二人にその"王の名"を喰われたのである。
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■希少が功【七柄の大太刀】
 では本当に何もしなかったのであろうか?
今となっては功名は全て、母・神功皇后と次期天皇・仁徳天皇の手柄であるとしか言えないが、
一つだけ、応神天皇の功名であろうと思えるエピソードがある。

 それは三韓遠征の一国。百済から和平の為に贈られた儀式刀『七支刀』である。
母・神功皇后の手柄といえばそれまでだが。母と共に生き、母と共に海の向こうを見続けた
「応神天皇」が、母の生涯をかけた三韓遠征の終焉を治めたというのは。実にらしいじゃないか。
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-[全体のデザイン]--------------------------------------------------
 応神天皇のイメージは、海の向こうの文化をモロに影響受けているだろうと考え、
朱塗の朝廷を背景に置き、海の向こうの皇帝の装束を纏わせた。イメージカラーは朱.緑.金です。

外見は年齢設定を決めるのが難しかったが、母・神功皇后との母子愛を素直に見せ易いだろうと
子供っぽい容姿に決める。
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【武装】
1七柄の大太刀《七支刀》
     時に。三種の神器の《草薙の剣》と混合視される七支刀。
    それが長い間の疑問だったが、応神天皇の母・神功皇后が天照大神と混合視されたが由縁だと解決。
    天照大御神の起源は以前『卑弥呼説』を説いたが、女の身で全倭軍を率いたたけだけしさから
    『神功皇后説』からも少なからず関係しているだろう。

     明らかに戦闘向きではないデザイン故に装飾・儀式等と考えられている。
    イラストでは。実践に使えないとあまり好きな武器ではなかったが、
    『七柄の"大"太刀』という可能性に一気に好きになった。(大剣好き


2旗持ち。
     「応神天皇」は時に母・神功皇后の、三韓遠征時の旗持ちとして描かれる。
    それ故に、八幡神と視られるようになったのだと思われる。
    イラストでは。宮中に無数に垂らされた布で、旗を現している。


3[撞賢木厳之御魂 天疎向津(つきさかき いつの みたま あまさかる むかつ)媛命
     さてまたこの名が出ました。私も好きですねー。
    撞賢木(天照大御神の別名)は、その勇ましさと人々の上に立つ者という共通点から、
    神功皇后と共同視されているのは上記の通り。
     また遠征で一つの重要なことは運勢であった。数々の神の御加護にすがるべく、
    「日入づる国」の通り、繁栄を示す太陽神【天照大御神】の出番なのである。

■太陽神【天照大御神】
     撞賢木厳之御魂 天疎向津の意味を考察しよう。(応神の項なのに。)
    撞賢木はT字の撞木杖。つまり老賢人の支えを示し、厳之御魂は魂の激しい状態を示す。
    『天疎向津』が一番重要で「疎」とは、光が中心から放射状に分散する意味を持つ。
    つまりありありと輝く太陽の後光を示すのである。
    そして「疎」とは、神社寺院の屋根の内側に使われている装飾技法のことも指すのだ。

    イラストは「疎」を大半が占め、幽霊みたいに漂う女性に、天照大御神=神功皇后の意味合いと、
    応神天皇と神功皇后との母子愛を狙っている。



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今回は『日本の神話』応神天皇の項より、イメージを温めてました。
「応神天皇」
http://nippon-shinwa.com/oujin.html
『日本の神話』
http://nippon-shinwa.com/

『七柄の"大"太刀』は天照大御神でも紹介した参考文献から。
http://homepage2.nifty.com/daiitoku/singu.htm

また、お客様の山本寛子様とのやり取りで、天照大御神=神功皇后を思い立てました。
この場をかりて、改めてお礼をば。有り難うございました!(^^
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